昭和42年〜 激化の年

 昭和42年 ベトナム戦争が激化していくこの年の4月、アメリカの物理学者J.R.オッペンハイマーが亡くなっています。
 1943年〜45年、ロスアラモス研究所長として原子爆弾の開発をリードし「原爆の父」と言われました。1954年水素爆弾の製造計画に反対したため、折から吹き荒れていた「赤狩り」(マッカーシー旋風)に巻き込まれ公職を追放されました。しかし1963年ケネディ大統領の時代に、アメリカ国内で原子力に関して功績のあった人に与えられるフェルミ賞(1954年創設)を与えられ、「名誉」を回復されています。
 昭和42年版「新生活標語」の1日付に 


 うしな    もの   と    かえ       すぎ   さ      じかん    もど   
 失った物は取り返せても過ぎ去った時間は戻らない

 とあります。彼の名誉は水爆製造に反対したことにこそにあると思います。

 この年、広島の「原爆ドーム」が荒れ放題になっている、と伝えられました。
 風化のためレンガや壁が崩れ落ちている様子が写真で伝えられ、国内だけでなく海外からも修復費用が寄せられ、「原爆の惨禍を伝えるとともに平和のイメージの原点」として、永久保存工事を施されました。


  すぎ   さ             かえ               たいけん   い  
 過ぎ去ったことは返らないがその体験は生かすことができる

 12日付。悲惨な歴史を乗り越え世界に平和へのメッセージを送り続けるヒロシマ。

 その広島の東洋工業が、ドイツのワンケル社から基本特許を導入して開発、製品化したロータリーエンジン搭載車「コスモスポーツ」を発売したのはこの年の5月。
 数々の技術的困難をクリアして世界で初めて(その後も無い)ロータリーエンジンを実用化。ファミリアやルーチェを作って乗用車メーカとして認知されつつあったものの、以前の3輪トラックの印象が残っていた「マツダ」のイメージを一変させました。
 家族を原爆で失った悲しみを乗り越え、広島の復興に尽くそうと努めた技術者たち。
 しょくぎょうほんらい  もくてき  しゅうにゅう       ひと          やくだ     
 職業本来の目的は収入ではなく人のために役立つことである

 25日付の標語です。

 ミニスカートが大流行して繊維産業は色々な影響を受けました。10月にはミニスカートの女王ツイッギーが来日。その名の通り小枝のように細い体にこそ過激なファッションはよく似合うことをレスリー・ホーンビー嬢は教えてくれました。 

  たにん    ひはん                 じぶん    ひはん    う     い    がた 
 他人の批判はしやすいが自分の批判は受け入れ難い

 4日付。いや…、その…、だれが似合ってだれはそうではないなんてつもりではないんです。ゴメンナサイ。

 10月20日、戦後の日本を導いた吉田茂元首相が逝去。閣議決定により「国葬」をもって送ることになり、同月31日、日本武道館で国葬が行われました。

    くに    とうと   いえ   たいせつ         ひと   こじん             しんらい
 国を尊び家を大切にする人は個人としても信頼がおける

 31日付。吉田さんは「バカヤロー解散」など逸話の多い人でしたが、マスコミでは「ワンマン」と称された一面が誇張して伝えられ、無秩序と貧窮の日本を立ち直らせた功績が伝えられることは希でした。そのせいか国葬と決まった時に反対を唱える人がありました。

 大磯の吉田邸は「海千山千荘」と名付けられていました。「海千山千」は、海に千年山に千年住んだ蛇は竜になるという言い伝えから、せちがらい世の中の裏も表も知っている老獪(ろうかい)な人という意味。
「さすがご自身のことをよく分かっていらっしゃる」
「何を言う。海に千年山に千年住んだような人ばかり来るからこう名付けたのだ」
とおっしゃったとか。ハバナ葉巻の煙に巻かれてしまいそう。

 7月、歌人窪田空穂が亡くなっています。大正6年に夫人を亡くし、「桜咲けるを見つつ訝しきもの見る如く思ひたり我は」というほど呆然として時を過ごし、やがて多数の短歌や長歌を作歌し、大正7年『土を眺めて』を出版。
 同歌集にある長歌「止まれる時計」は、シベリア抑留中、劣悪な待遇のもとで病死した次男茂二郎に悲痛の思いを寄せた「捕虜の死」(『冬木原』)と共に、果てなく深い愛と嘆きを詠んだ空穂の絶唱。

  なに  も           ひと     てんち    めぐ    いただ 
 何も持たぬという人でも天地の恵みは頂いている

 8日付。愛も嘆きも昇華させてくれる短歌。これも人に与えられた天の恵みではないでしょうか。


 昭和43年 明治に改元されたのが1868年の陰暦9月8日(太陽暦では10月23日)。昭和43年(1968年)それから丸100年を経過したことを祝って、10月23日に日本武道館で「明治百年記念式典」が開催されました。

 昭和天皇、皇后両陛下をお迎えして行われた式典には各界の代表ら約9,000人が参列。佐藤栄作総理大臣は、「世界平和の確立に向かって前進することを決意する」とあいさつをしました。

よ            しゅうし いっかん       しん            え
善いことほど終始一貫せねば真のみのりは得られない

 昭和43年版「新生活標語」の1日付の言葉です。
 日本は明治の開国以来、茨の道を歩んで近代国家に、そして軍事大国を経て、経済や産業技術の面で世界のトップに並ぶ国と自負するに至りました。
 この100年の歴史にあって、終始一貫と言えることをしてこられたのは、毎日毎日、国民の幸せと国の安泰を祈ってこられた、天皇陛下だけではなかったでしょうか。

我が庭の宮居に祀る神々に世の平らぎを祈る朝朝

星かげのかがやく空の朝まだき君はいでます歳旦祭に


昭和50年の歌会始に出詠された御製と香醇皇后の御歌です。

 埼玉大学教授長谷川三千子氏は、『文藝春秋』3月号に、
 天皇陛下とはわれわれのために祈ってくださる方だ、といふことである。
 と書いておられます。

 人生のうちでただ一度や二度ではなく、しかも、かぎられた数人のためではなく、一億数千万の人々のために、全存在を挙して祈りつづけるなどといふことは、完全にわれわれの想像の域をこえ出てゐる。けれども、天皇陛下のなされる「祈り」とは、まさにさうした「祈り」なのである。 と。

 そしてさらに長谷川教授は述べています。

 陛下が祈られるからと言つて、地震が起こらない訳ではない。殺人事件が絶える訳ではない。病に苦しむ人々がゐなくなる訳ではない。しかし、それらのすべての苦を自らの苦として悲しみつつ、その一人一人のために祈る方が、常にこの世に存在しておられる   そのことの意味を、われわれは噛みしめてみなければなるまい。われわれはいまのこの世の中を、かなり絶望的な世の中だと思つている。けれども、もしもこの世からかうした祈りが奪ひ去られたら、それどころではない本当の絶望の世をわれわれは知ることになるであらう。

 憲法第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とありますが、天皇陛下はこのようなご存在であることを心に置いてこの文言を読むと、新たな感慨がわいてまいります。

 日本の国が始まって以来、どのような状況に置かれていた時も、「全存在を挙して祈りつづけ」てくださっていることが、終戦直後の出来事を通して伝わってきます。

 次の文章は昭和20年9月27日、昭和天皇がマッカーサー連合国軍最高司令官を訪問された時のことを記した、「奥村元外務次官談話記録」です。同様のことが「マッカーサー回想記」にも記されています。

 「今回の戦争の責任は全く自分にあるのであるから、自分に対してどのような処置をとられても異存はない。次に、戦争の結果現在国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米国に是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充てて頂ければ仕合せである」と陛下が仰せられて、大きな風呂敷包を机の上に差し出された。
 それまで姿勢を変えなかった元帥が、やおら立上って陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして御手を握り、「私は初めて神の如き帝王を見た」と述べて、陛下のお帰りの時は、元帥自ら出口までお見送りの礼をとったのである。

 昭和20年8月14日の御前会議でポツダム宣言を受け入れて連合国に降伏する決定されたことも、終戦から半年後の昭和21年2月に始められた全国御巡行を自らご決意されたことも、天皇陛下の「全存在を挙し」た祈りがあって実現されたと推察されます。

 天皇陛下の祈りは、一切をなげうって国民のために尽くすという輝きを放つものだったのです。
 20日付の標語に次の言葉があります。

ひと   しんか    はっき            こんなん   つ   あ       とき

人の真価が発揮されるのは困難に突き当たった時である

 12月16日、第35代横綱双葉山の日本相撲協会理事長、時津風親方が死去。部屋別総当たり制を導入し相撲診療所を開設しました。蔵前国技館の貴賓席から身を乗り出すようにご覧になっていた、昭和天皇のお側に、いつも時津風理事長の姿がありました。

 じぶん     けってん   してき               よろこ       き      ひと   かなら   こうじょう 
自分の欠点を指摘されたとき喜んで聞ける人は必ず向上する

 13日付。昭和14年1月、70連勝目前で安芸の海に破れたとき「我いまだ木鶏(側で他の鶏が騒いでも動ぜず、木で出来た鶏とみえるほど気力が充実している闘鶏のこと)にあらず」と言って、極限まで相撲道を求めた大横綱双葉山。