昭和38年〜 オリンピック開催へ

 昭和38年 は新年早々からものすごい冬型気圧配置となり広い地域が豪雪に見舞われて、交通が途絶したり、家が壊れたり、沢山の方が亡くなったりしました。1月は月半ばにも月末にも寒波が来て、雪の恐ろしさを記憶に焼き付けられました。

 雪と言えば、この年の4月NHKの大河ドラマが始まっています。その第1回目の作品は「花の生涯」。井伊直弼を描いた物語で、尾上松緑(井伊直弼)、淡島千景(村山たか)、佐田啓二(長野主膳)らが出演しました。

   しんこん   う    こ                       にんげん  こころ  じゅんか                心魂を打ち込んでやっているとき人間の心は純化されていく

 昭和38年版「新生活標語」28日付。

 大老として、世界を見据えて開国の道をとり、幕府の維持のため、これに反対する天下有為の人材を断罪した井伊直弼。

 後世、毀誉褒貶半ばすることになる彼の事跡を思うとき、「赤備え」と呼ばれた井伊藩の鎧武者の剛直な姿が浮かんできます。

 2月、別府毎日マラソンでクラレの寺沢徹選手が当時世界最高となる2時間15分15秒で優勝し、翌年に迫った東京オリンピックに希望を持たせてくれました。

 戦後の電力不足を背景に昭和三十一年着工された黒四ダム(関西電力黒部第4水力発電所)が7年の歳月を掛けてこの年の6月に完成しています。

 延べ1000万人が働き、171名の犠牲者を出して出来上がった、アーチ式ドーム越流型ダムは日本最大で、高さ186m、堤長492m、2億立方メートル(東京ドーム約161杯)の水を貯えます。ダムの堰堤は立山頂上直下の標高 1,454m に位置しており、ダム一帯は立山黒部アルペンルートとして親しまれています。

          たか   りそう       とうたつ     みち   ひと             じっこう
どんなに高い理想でも到達する道は一つひとつの実行にしかない

 17日付。黒四ダム完成までの人間ドラマは、「黒部の太陽」で広く知られています。

 同じ六月に初の女性宇宙飛行士テレシコワさんが乗ったソ連のボストーク6号が打ち上げられました。彼女が宇宙から地上に連絡した言葉「わたしはかもめ」は「地球は青かった」と同じように広く知られました。

 前年のキューバ危機に学んで、ホワイトハウス(ケネディ)とクレムリン(フルシチョフ)の間にホットラインが敷かれたり(8月)、部分的核実験禁止条約が結ばれたり(10月)しました。
 うば   あ      とも   たお      わか   あ      とも   さか      
 奪い合えば共に倒れるが頒ち合えば共に栄えていく

 7日付。そしてケネディは、食糧不足のソ連に小麦を輸出することを承認しています。ソ連はかつては小麦の輸出国でしたが、一九六〇年を過ぎたころから農業生産が落ちて、輸入国に転落していました。

 一方で米ソの代理戦争と言われたベトナムの紛争は深刻さを増し、ゴ・ジン・ジェム政権に反対する僧が焼身自殺したり、南ベトナム国内は混迷を深め、ゴ首相は一一月初めに暗殺されました。


    たが      しんらい   あ   き  も        へいわ    す         しゃかい   つく    
 お互いに信頼し合う気持ちこそ平和な住みよい社会を作る

 3日付。一つの国が共産化したら周辺の国が次々に共産化する、それを止めるために、と作られた政権は民衆の信頼を得る間もなく政変を続け、やがて民族解放の衣を被った北の軍隊によって息の根を止められます。

 この年に起きた他のすべてを忘れさせる大事件、ケネディ大統領暗殺が伝えられたのは11月23日でした。日本とアメリカを宇宙中継で結ぶ初めてのテレビ放送が、テキサス州ダラスの暗殺の実況場面でした。

 驚き、悲しみ、怒り、失望。最初の衝撃が過ぎるとアメリカには得体の知れない勢力があることを思わせられました。


 
昭和39年 10月10日、「世界中の青空を集めた」ような快晴のもと94か国が参加して東京オリンピックが開会式を迎えました。日本の新しい時代を告げるにふさわしい美しい戦いを繰り広げたオリンピックは24日に閉会しました。

 この年、巨人の王貞治選手は1試合に4本のホームランを打つなど大活躍し、ホームラン55本の日本記録を樹立しています。

 ひと    せいこう          まえ       どりょく          まな
 人の成功をうらやむ前にその努力のあとを学ぼう

 昭和39年版「新生活標語」の15日付にこうありますが、メダルに輝いたアスリートたちも王選手も、栄光の裏にすさまじい努力があったに違いありません。

 また「ナタの切れ味」と言われたシンザンが3冠馬となったのもこの年です。

 4月には東京で、その後京都で「ミロのビーナス展」が開かれました。長蛇の列に並んだあげく展示室にびっしりの人、人、人…。そんな熱気の中にあっても、白い大理石の像は静かな雰囲気を少しも損ねることなくたたずんでいました。

 この年のノーベル文学賞にJ・P・サルトルが選ばれました。しかし「ジャガイモ一袋でも受け取らない」と賞を拒絶して自分の生き方を示しました。またノーベル平和賞はアメリカの黒人解放運動の指導者M・R・キング師に与えられました。

  
しんちゅう   きぼう     う                        ものごと    かなら   こうてん 
 
心中に希望を失いさえしなければ物事は必ず好転していく

 29日付。長い抑圧の末この年の7月に新公民権法が成立しています。

 8月、アメリカはトンキン湾に派遣中の駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃されたと発表、アメリカは北ベトナムを報復爆撃しました。本当に攻撃されたのか、でっち上げだったのか、この事件を境にベトナム戦争は一気にエスカレートしていきました。


   たにん                 ひなん                    じぶん            い     わけ
 他人がすれば非難することを自分がすれば言い訳をする

 24日付。アメリカにも、ベトナムも、それぞれの「正義」がありました。

 10月1日には新幹線が開業しています。オリンピックに間に合わせるため、多くの人の我が身をかえりみない働きによってこの日を迎えたことは、よく知られているところです。この日を待たず5月に自民党の副総裁を務めた大野伴睦氏が亡くなっています。新幹線を地元の岐阜羽島を通るように変更させて「政治駅」と騒がれました。

 同じ10月、農業政策の失敗を理由にソ連のフルシチョフ首相が解任されました。その後、集団指導体制を経てブレジネフが権力を手中にしていきます。

 日本ではオリンピック終了の翌日、池田勇人首相が勇退を表明し、佐藤栄作氏が後継首班に指名されました。池田氏は病気を秘してオリンピック開催を支えましたが、体調が戻らず退陣を表明。「きれいな身の引き方」と政界やマスコミから賞賛されました。

 ものごと     まよ       ふあん     お            けつい     た       しょうこ
 物事に迷いや不安が起こるのは決意が足りぬ証拠である

 26日付。少し厳しい言い方になっていますが、国を預かる政治家にも迷いや不安はあることでしょう。それを乗り越えての決断だったのではないでしょうか。

 7月、「君の名は」「喜びも悲しみも幾年月」の映画俳優、佐田啓二。
 11月、「藪入り」「居酒屋」の噺家三遊亭金馬(3代)「…のようなもので、ヘィー」(居酒屋)
 12月、浪曲「清水次郎長伝」「森の石松」の2世広沢虎造「旅ゆけばーあぁ、駿河の国にぃー茶の香り…」(次郎長伝)

 それぞれの世界で花を咲かせた人がこの年亡くなっています。