もはや戦後ではない 昭和31〜35年

 昭和31年 1月に芥川賞(昭和30年下期)の授賞式が行われ、石原慎太郎氏(現東京都知事)の「太陽の季節」が受賞。この作品は映画化され、脇役で出た石原裕次郎のデビュー作となりました。「裕ちゃん」は次回作の「狂った果実」で主役を務め、またたく間にスターになりました。

 経済界は「神武景気」と呼ばれる活況を呈し、7月に発表された経済白書で「もはや戦後ではない」とうたわれ、経済的にも、社会的にも「戦後」の空気はぬぐい去られていきました。
 この年の6日付けの標語に

  よ  なか  つね  う   か           ふこう        つづ
 世の中は常に移り変わっている不幸だけが続くものではない

 とありますが、国を、家族を思いつつ亡くなった多くの戦没者の遺志に応えようと、必死でがんばられた産業戦士の尊い働きによって「戦後」の時代を脱することができたのでした。

 イタリアのドロミティ・アルプスに包まれたコルチナダンペッツォで開かれた冬季オリンピックで、トニー・ザイラーがアルペン競技の三冠に輝き、猪谷千春選手が回転競技で銀メダルを獲得しました。

 むずか    おも       すす       ひと  かなら  の
 難しいと思うことを進んでやる人は必ず伸びる

 16日付の標語にこの言葉がありますが、「黒い稲妻」と呼ばれるザイラー選手も猪谷選手も、猛練習を積んで栄冠を手にしたのでしょう。この年の5月には日本山岳会が世界第9位の八千メートル峰、中部ヒマラヤのマナスルに初登頂しています。

 鳩山一郎首相がソ連のブルガーニン首相と交渉し、日ソ国交回復に関する共同宣言を出したのは10月のことでした。強大な武力を誇り、西側諸国と対峙して一歩も譲るまいと構える相手と、どんなに難しい交渉だったことでしょう。

31日付の標語に
 い          い   な           な   あと   しぜん        
 言うべきは言い為すべきは為し後は自然にまかせよ

とありますが、平和と安定を求めて苦労された鳩山首相の心が偲ばれます。

 鳩山首相が帰国した数日後、ハンガリーで反政府暴動が起こりました。この年の2月に行われたソ連共産党大会でフルシチョフ第一書記がスターリン批判をしたことに意を強くして、恐怖政治をしくハンガリー共産党政権に国民が叛旗を上げましたが、自由と国の再建を求める声に返ってきたのは、改革への足音ではなく銃弾でした。

 この年の5月にはアメリカがビキニ環礁で初めて水爆実験をしています。東西陣営の対立は深まるばかりでした。

  じぶん    しゅちょう  かんが   はんたい      こえ     じぶん    みが  りょうし
 自分の主張や考えに反対する声こそ自分を磨く良師である

 7日付のこの標語には、政権を担う人だけでなく、世の中に何かを働きかけようとする人に味わってほしいという願いが込められています。

 この年の映画と言えば、市川昆監督、安井昌二、三国連太郎主演の「ビルマの竪琴」でしょう。戦場で、敵も味方も竪琴に合わせて歌う「埴生の宿」。戦いの中に咲いた一瞬の安らぎ、銃を忘れさせる力が歌にはあるようです。


 
昭和32年の出来事といえば10月のソ連の人工衛星スプートニク打ち上げでしょう。ソ連はそのひと月後にライカ犬を乗せたスプートニク2号を打ち上げましたが、アメリカがエクスプローラーを打ち上げたのは翌年の1月のことでした。

 空の上で華やかな宇宙開発競争が始まる7か月前の3月、地上では西アフリカのガーナが独立を果たしました。バンドン会議で連帯を強めたアジア・アフリカ諸国の声が植民地解放に大きく寄与し、多数の国があいついで独立した昭和35年(1960年)は「アフリカの年」と呼ばれました。

 昭和32年版の7日付に

 ねんがん          ふどう            かなら          あらわ
 念願はそれが不動のものなら必ずかたちに現れる

 とありますが、念願が形となって現れた時の喜びはどんなに大きかったことでしょう。

 キューバで、チェ・ゲバラを迎えたカストロがバティスタ政権打倒へ踏み出したのもこの年です。
 そして日本では2月に岸信介内閣が発足。アイゼンハワー大統領との会談後「日米新時代」が唱えられました。

 まこと   つく              こと          しっぱい       くい      のこ
 誠を尽くしてやった事はたとえ失敗しても悔いは残らない

 と、14日付の標語にありますが、冷戦下で経済的にもまだ十分な力を持たない日本のため、岸首相はこの後重大な決断をすることになります。

 南極観測年に合わせて前年に観測船「宗谷」で日本を発った日本南極地域観測隊は、この年の1月末にリュッツォホルム湾のオングル島に昭和基地を建設しました。

 この年の15日付けに

 よろこ      くろう    なか        くろう    ともな       よろこ  
 喜びは苦労の中にある苦労の伴わない喜びはない

 とありますが、大正元年白瀬中尉の南極探検以来の南極大陸で、観測隊員の苦労は想像に余りあります。

 この年の5月、東海村に原子力発電実験炉が完成、8月に原子の火を灯しました。
 8月には軽三輪トラック「ミゼット」が発売されました。価格、維持費、燃費とも良く、大村昆の軽妙なテレビ・コマーシャルもあってブームを呼びました。翌昭和33年には富士重工が軽乗用車「すばる360」を発表しています。

 男声4重唱のダークダックスがデビューし、フランク永井の「有楽町で会いましょう」や浜村美智子の「バナナボート」がヒットしたのもこの年です。また帝王カラヤンがベルリンフィルを率いて日本初公演をしています。

 この年には聖徳太子像の五千円札(10月)と鳳凰の図柄の百円銀貨(12月)が発行されています。
 この年には新生活標語の大型が発刊され、事業所など広い所で使うのにぴったりだと好評を頂きました。

 昭和33年11月、皇太子継宮明仁親王殿下(今上陛下)と正田美智子様(皇后陛下)とのご婚約が発表されました。翌年4月のご成婚まで国中が慶事にわきました。

 この年の11月には東京・大阪間を6時間30分で結ぶ電車特急「こだま」号が登場。東海道線を日帰りで往復できることから「ビジネス特急」と呼ばれました。新幹線が登場するのはまだ6年先のことです。

  きょう    いっぱい   はたら         あす      きぼう             やす
 今日を一杯に働いたなら明日に希望をたたえて休め

 これは昭和33年版「新生活標語」の31日付の言葉ですが、経済の発展につれて企業で働く人たちはどんどん忙しくなっていきました。

 初場所で優勝した若乃花(初代)が横綱に推挙されました。その後横綱栃錦と共に「栃若時代」と呼ばれる大相撲の隆盛を招くことになります。

 長嶋茂雄選手が巨人に入団。最初の試合で国鉄の金田正一投手に4連続三振を食ったり、広島戦でベースを踏み忘れてホームランをフイにしたり何かと話題を振りまきましたが、シーズンが終わってみれば打点とホームランで1位となり新人王を獲得しました。


  きょう  ぜんりょく   つく         ひと   あか     あ  す    く
 今日全力を尽くさない人に明るい明日が来ることはない

 打つのも守るのも走るのもいつも全力で取り組む新しいスターに、プロ野球ファンは熱狂しました。 しかし、この年の日本シリーズで勝ったのは3連敗の後4連勝した西鉄ライオンズ。稲尾和久投手は巨人を相手に4連投して4連勝し「神様、仏様、稲尾様」と言われました。

 この年の12月には東京タワーが完工しています。当時世界一の塔となる333メートルの高さは、関東一円にテレビの電波を送るために計算された高さでした。

  にちじょう  さ  じ      せいい    つ     の      みち            はじ
 日常の些事にも誠意を尽くせ伸びる道はそこから始まる

 世界一となる塔の建設という難工事のため、日本が誇る技術者、とび職の皆さんが大活躍されましたが、巨大な塔も小さな作業を着実に積み重ねる「職人」の心意気によって出来たのでした。