昭和26年から30年

  昭和26年に入ると、前年からの軍需による経済効果で産業界は復興へ歩み始めました。
 昭和26年版「新生活標語」の22日付に

  つね  げんざい  さいぜん         こっこく   はたら   けっか   つく
 常に現在に最善をつくせ刻々の働きが結果を作る

という言葉があります。

 資源も資金もない中で、みんな最善を尽くして産業と国の復興を目指していました。

 この年の7月には朝鮮戦争の休戦会議が始まりますが、その3か月前の4月にGHQ最高司令官として絶大な権力を誇っていたマッカーサー元帥が解任され、日本人を驚かせました。

 昭和26年版「新生活標語」の30日付に

  きぼう    も     どりょく      ひと  つね   お           し
 希望に燃えて努力する人は常に老いることを知らない

という標語があります。

 退役したマッカーサー元帥が、数年後に講演した時に引用した詩(S.ウルマン作)に、


   青春とは人生のある期間を言うのではなく、
   心の様相を言うのだ…
   …年を重ねただけで人は老いない。
   理想を失うときに老いが来る…


という一節があります。

 この詩はその後講演やスピーチなどでよく引用されるようになりました。
 
 
昭和27年、サンフランシスコで対日講和条約が締結され、日本は独立を回復しました。
 昭和27年版「新生活標語」の30日付に
 いま かんぜん   い      か  こ       な    みらい        な    
 今を完全に生きよ 過去はもう無い未来はまだ無い

という標語が入っています。

 新しい国へ、自主独立の道を歩み始めた日本でしたが、この時点では何もかも失った過去を振り捨て、人々は今を懸命に生きることに活路を求めていました。
 しかし、国内的には左右の思想の対立が激しく、「血のメーデー」などの事件が相次ぎました。
昭和27年版「新生活標語」の3日付に

  はんたい  こえ    みみ  かたむ             こうじょう  みち
 反対の声にも耳を傾けよ そこには向上の途がある

 という言葉があります。

 アメリカ人カーン博士の合理的なトレーニング法を基礎に不屈の闘志を磨いた、白井義男選手がボクシング世界フライ級タイトルマッチでアメリカのダド・マリノに勝って、チャンピオンになったのは五月のことでした。

 後楽園球場の特設リンクで行われた試合のラジオ中継をかじりついて聞き、判定勝ちに日本中が歓喜の声をあげました。

 
じ  こ   けってん   き づ      とき    しんぽこうじょう    だいいっぽ
自己の欠点に気付いた時が 進歩向上の第一歩である

 一日付けにこの標語があります。

 精神論を元にした古いトレーニング法を捨てる時、白井選手に迷いがなかったわけではないでしょう。単純な打ち合いを捨て、アウトボクシングに徹するについても、卑怯者と罵声を浴びせられることを覚悟しなければなりません。

 自分のカラも、ボクシング界の古いカラも破って、日本初の世界チャンピオンが誕生したのでした。

 この年の七月ヘルシンキでオリンピックが開催され、鉄人ザトペックが長距離三冠に輝きました。前回のロンドンオリンピックに出場を許されず、戦後初出場の日本はレスリングや体操で活躍しました。

 しつぼう                           もくてき  たっ
 失望さえしなければいつかは目的は達せられる

この年の12日にこんな言葉があります。

 この大会で銅メダル一つに終わった日本体操チームは次のメルボルンで小野喬選手が鉄棒で金メダルを取りました。

 昭和28年、テレビジョン放送が始まりました。

 しかし大衆娯楽の王座を占めていたのは映画で、洋画では「シェーン」「禁じられた遊び」などが公開され、邦画では「東京物語」「ひめゆりの塔」「地獄門」などが評判を呼び、衣笠禎之助監督の「地獄門」は翌年カンヌ映画祭でグランプリを獲得しました。

 こんな隆盛にある映画界でしたが新興の映画会社のスターの引き抜きをおそれた既存の映画会社が「五社協定」を結びました。俳優たちの自由を封じ、映画ファンの楽しみ奪う協定でした。

 昭和28年版「新生活標語」の16日付けに

  じぶん    きもち      お          あいて    じぶん    はな
 自分の気持ちを押しつける相手は自分から離れていく

という言葉があります。

 自由を封じると言えば、この年の3月にスターリンが死去しています。

 英国のエリザベス女王の戴冠式に合わせてエベレスト初登頂を目指していたE.ヒラリーとテンジンが山頂に立ったのは5月末のことでした。

 昭和28年版「新生活標語」の3日付けに

  つね こころ  へいせい  うしな    ひと   じぶん  ちから  じゅうぶんはっき
 常に心の平静を失わぬ人は自分の力が十分発揮できる

とあります。

 敗戦後の日本を立て直すには道義の確立が第一である、という信念で製作されてきた「新生活標語」ですが、昭和28年版は10.000部製作し完売されました。


 昭和29年、街頭テレビのプロレス中継が大人気で、力道山・木村組とシャープ兄弟の対決に黒山の人だかりが出来ました。映画も、ローマの休日、恐怖の報酬、七人の侍、二十四の瞳、ゴジラなど、大作や話題作が公開されています。

 この年は事件・事故が多く皇居参賀の人並みが崩れて多くの死者が出た二重橋事件や、造船疑獄、第5福竜丸の放射能被爆があり、台風15号により青函連絡船洞爺丸が沈没、1.155人が海に消えました。

 保安隊が自衛隊となったのも、戦後の日本を導いた吉田茂首相が退陣し鳩山一郎氏が首班指名を受けたのもこの年でした。

 昭和29年版「新生活標語」の1日付けは

  あ す   あたら   く         ひと   ひ び  あたら
 明日が新しく来るように人も日々新しいのである

という言葉でした。

 昭和21年に国民を励ますために始められた天皇陛下の地方巡幸は、8月に行われた北海道巡行で一応の区切りを付けられました。

 昭和29年版の「新生活標語」の発行部数は20.000部となりました。

 昭和30年になると産業界は活況を呈してきました。トヨペット・クラウンが発売され、トランジスタラジオが世に出たのもこの年でした。

 昭和30年版「新生活標語」の8日付けに

  ひと  せいかつ  よ    なか     ほうし  しょくぎょう  ほうし   しゅだん
 人の生活は世の中への奉仕 職業は奉仕の手段である

とありますが、企業戦士たちは新しい時代を開くため、これまで無かったものを開発して世の中に送り出していきました。

 身近な娯楽としてヘルスセンターが開業し、大阪では通天閣が再建されています。1円アルミ貨が発行されたのもこの年です。

昭和30年版「新生活標語」の12日付けは

  く      ぎら     ひっこみじあん      い    がい       せいかつ  で  き
 食わず嫌いと引込思案では生き甲斐のある生活は出来ぬ

 翌年に始まる神武景気へ、世の中は徐々に明るさを増していました。